アントニオ猪木が亡くなった。
私自身プロレスには疎いのだが、彼の死に少し驚いた。何故ならちょうど弔報の数日前に、旦那との会話で彼の話になったからだ。
最近、日本の総合格闘家と世界的に有名なボクサーの大きな異種対決があり、話題になっていた。
「興行が儲かるとはいえ、勝敗の予想もつくし、そもそもどちらかに不利な対戦は面白くない。」
というのが旦那の意見だ。
「でもさ、昔もアントニオ猪木対モハメド・アリとかやってたやん。きっと日本人はそういうの好きなんよ。で、多分興行や選手も含めてみんな儲かるんじゃない?」
「おぉ…そういえば、そんなん昔あったな。」
そんな話からアントニオ猪木の話になった程度なのだが。
重ねて言うが、私は格闘技は全く詳しくない。
アントニオ猪木といえばプロレスラー、というイメージよりも先に来るのは
【アゴが非常に特徴的な男性】
【常に他人の元気を確認する人】
【人にビンタをしても、ありがたがられる人】
【いのきっ♪ボンバイエ♪いのきっ♪ボンバイエ♪の人】
【国会で赤マフラーを着用し、物議を醸した人】
【めちゃくちゃ北朝鮮に行ってた人】
くらいのイメージしかない(案外あったな)。
逆に近年、病に臥せりながらもYouTubeなどで自身の姿を発信し続けられていたのは、弔報の記事の中で知った。
私の中でアントニオ猪木は、亡くなる直前まで元気で、今でも人に「元気ですかー!」と問うているイメージだったのだ。
そんな人がいきなり亡くなったと聞いたので、「えっ?そうなの?」と驚いた。
大変失礼な話だが、私は
【アントニオ猪木の『今』に全く興味がなかった】から驚いたのだ。
幼い頃、テレビで自分の知らない往年のスターや俳優が亡くなった、と言う報道を観るたびに母が
「ええっ、あの人亡くなったんや!」
と大袈裟に驚くのがイヤだった。
テレビに今でもたくさん出ていて私も知っている人ならともかく、すでに殆ど観ることもなく、更に享年80とか90いくつとか言われると、正直「そら普通やろ。」と思っていた。
さして母だって、そのスターが好きだった訳でもないだろうに。その人の話など、亡くなるまで聞いたこともない。
「○○って言う映画に出てて、人気やったんよ…。」と寂しそうに言われても、私に悲しみや驚きを誘う要素にはならない。
しかし自分も少し歳を取り、母と同じような反応をしていると気づいた。
母もきっと、亡くなったスターの『今』を知らなかった。興味も本当はなかったのだろう。
自分の若い頃に観ていたスターは、興味がなくなれば、観ていた頃のイメージのまま時が止まる。
それが彼らの死によって止まっていた時が一気に動きだし、突然終わる。
私の中でのアントニオ猪木も、バラエティ番組で「1!2!3!ダァー!」と叫びながら人を張り倒している姿や、赤マフラーを首に巻いて国会議事堂で押し問答をしている姿で止まっていた。
そして、そのまま彼の人生は(私の中では)突然終わった。
母も私も、驚いていたのは
【その人の死】にではなく
【止まっていた時が急に動き出すこと】になのかもしれない。
話が逸れるが、私は落語が好きである。
関西の上方(かみがた)落語が好きで、中でも二代目桂枝雀と、三代目桂米朝が大好きだった。
本題ではないので、落語の説明や二人の詳しい来歴などは省くが、両名とも既に亡くなっている。
二代目桂枝雀は、自死でこの世を去った。
生前、彼が心の病を患っていることは知っていた。
しかし、高座の桂枝雀は【爆笑王】だった。
当時私は小学生だったが、学校の職員室内に貼ってあった“桂枝雀独演会”のポスターを見つけ、先生に頼んでチラシを一枚もらい、親に連れて行ってもらった。
大きなホールの二階席から見た彼は豆粒のように小さかったが、その時の衝撃は今でも忘れない。
カセットやテレビで観ていたのより何百倍も面白い動きと軽妙な語り口。
客席がうねる、というのを子どもながらに体感した。大きな笑いの波に自分も乗って、さらに笑いが込み上げてくる。心が躍りに踊った。
会場を出ても興奮が止まらず、帰りのタクシーの中で運転手のおじさんにその話をしまくって感心され、タクシー代をタダにしてもらった話は、今でも親に笑い草にされている。
それから数年後に桂枝雀は亡くなった。
父からニュースを聞かされ、最初信じられなかった。
遺書もない。理由もわからない。
59歳。あまりに早い死。
還暦の年に、記念公演や写真集の発売も予定されていた。
今でこそ、鬱病から突発的に自死にいたることがあることは割と知られているが、今から20年以上前、まだ学生だった私には想像が結び付かず、ショックすぎる報せだった。
私は泣いた。高座のカセットを聴きながら涙が止まらなかった。
本人は心の病でいつも闇の中を彷徨っていたのかもしれないが、私にとっての桂枝雀はいつでも【爆笑王】だったから。
【爆笑王】が、自ら命を絶った。
イメージとのギャップが強すぎて、受け入れるまでに時間がかかった。
一方、三代目桂米朝は桂枝雀の師匠であり、弟子の死から約16年後、89歳でこの世を去った。
紫綬褒章授与や、人間国宝への認定など輝かしい功績を残した素晴らしい落語家である。
私はこの方も大好きだった。
弟子の枝雀氏とは真逆の、落ち着いた口調でじっくり聴かせる高座スタイル。
桂米朝は私の中で【上方落語の王道】だった。
子どもの頃から親が持っていたカセットやCDは擦り切れるほど聴いたし独演会にも行った。テレビで高座をやると聞くと欠かさずビデオを【標準】で録っていた(ある程度の世代より上の方なら、これで私の本気度をわかっていただけるかと思う)。
しかし彼が亡くなった時には、私はそれほどショックは受けなかった。
亡くなった氏の年齢が「大往生」と言える年齢だった。また、桂枝雀が亡くなった時より私の年齢が大人だった。ということもあるが、
それよりも大きな理由は、ある時私の中で既に
【落語家桂米朝が終わった瞬間】を感じてしまっていたからである。
彼が亡くなる数年前に、深夜のテレビで高座を披露していた。
その時には脳梗塞などを患った後で、すでに一線からは退いていて、滅多に彼の高座は観られなくなっていた。
久しぶりに米朝さんの語りが観られる!
その頃私は就職して寮で一人暮らし。録画機能のついたテレビを持っていなかったので、深夜にテレビの前で待機してそれを観た。
演目は、私が昔から聴いていた【鹿政談(しかせいだん)】。米朝さんの得意な演目だった。
…
…
違う。
これは桂米朝ではない!
序盤で、私は落胆した。
話の流れはバラバラ、説明すべききっかけをとばす。どこまで話したかを忘れてしまう、サゲ(オチ)まで辿り着くのがやっと…
おそらく脳梗塞の影響だろう。しかし正直、本人と一門がこれでよく放映を許したな…と思ってしまうレベルだった。
この年になってから思うと、桂米朝の『今』を知ってもらう為にあえてあの状態を放映したのかもしれない。
いろんなことを経験した今の私が観れば、また違った感想を持ったかもしれない。
しかし、その時の私は思ってしまった。
「落語家桂米朝は、終わった」と。
それから私の中の米朝さんは急速に老いていった。
私にとって彼はもう、ただの(元すごい)おじいちゃんになっていた。
亡くなった、というニュースを見た時も
「ああ、ついに亡くなられたか…」と落ち着いていた。
彼の死は、私にとって身近だった。
ある時に区切りはつけたが、ずっと興味があった。私の人生の流れの中で、彼は止まっていなかった。
話を戻す。
興味のない有名人の死に驚く、というのは結局
【興味が(わずかでも)あった時の、1番良いイメージのままでの突然死に驚く】ということなのではないだろうか。
イメージの良い人の突然死は当然ショックだ。悲しい。
私が桂枝雀氏に感じた深い悲しみを、アントニオ猪木氏に感じた人ももちろんいるだろう。
しかし逆に猪木氏の『今』を見守り続けていた人にとっては、私が桂米朝氏に感じたような落ち着いた受け止め方をした人もいると思う。
そして、それ以外の大多数の人には
『興味がない』ことなのだ。
私も、旦那と数日前に話題にしていなければ、ここまでアントニオ猪木氏のことを考えなかっただろう。
しかしながら、勢いとは言えここまで色々考えを膨らませて考えるきっかけになったアントニオ猪木。
「アゴ」「元気ですかー!」「ビンタ」「ボンバイエ」「赤マフラー」「北朝鮮」…思いのほかキーワードが沢山浮かんだ。
案外、私も猪木イズムを継承しているのかもしれない。
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